最初のおはなし

　　前回のおはなし
　　　　

犬ゾリレースには負けたものの、イチの心の中にはある気持ちが芽生えました。

僕らの街を日本一幸せにするのは決して夢じゃない。現実に出来ることなんだ。
イチは、そのために今までにないくらい頑張ろう、そう決意したのでした。




そんなある日、海べの街へ狩りに行くことになりました。
そこは、イチが故郷の街を出て最初に飼われていたあの街です。

そこでイチは、そのときの飼い主であった爺古に再会したのでした。


爺古は、今ではその街を出て、世界の国々を相手にした国際的な仕事をしていました。
懐かしく思ったイチが爺古に寄っていくと、彼はイチに向かってこう言いました。

「世界ドッグショーって知ってるだろう？　今度ドイツで大会があるんだが、
私は今、あの大会に出場する犬を選ぶ仕事をやっているんだ。
いいか、イチ。君にだって資格があるんだよ。君のことはいつも見てるからな。」

世界ドッグショーといえば、世界中のあらゆる一流といわれる犬たちが
一堂に会する場として知られています。
でもイチは自分には縁のないどこか遠い世界の話だと思っていました。

もちろんそれは爺古が久しぶりに会った懐かしさのために言った耳ざわりのいい言葉で
しかないことはわかっていましたが、イチはその言葉を聞いてこう思ったのでした。


以前夢だと思っていた『日本一の街』だって現実に出来るんだってのがわかった。
だったら僕が世界ドッグショーに出ることだって夢じゃないかもしれない。
頑張れば現実に出来るかもしれない。




それ以来、イチは変わりました。

肝心なところで失敗をしてしまう癖はすっかり影を潜めました。
そればかりか、それまでは獲物に追いつかないときについつい体当たりをしたりして
獲物を傷つけてしまうこともありましたが、走り方や体の入れ方を工夫して
確実に獲物を傷つけることなくしとめることができるようになりました。

街の人たちもイチの変わりぶりに目を見張りました。
そして街では「イチをドッグショーに出そう」という声が出始めました。




しかし、そんな心身ともに充実しているイチを突然アクシデントが襲ったのです。

昔ドッグショーの常連だった『キング』という犬を追いかけて走っていたときのこと、
キングの仲間の犬にぶつかってイチの身体は宙を舞い、そのまま地面に叩きつけられました。

なんとか起きあがることが出来ましたが、前足の付け根が痛くて立っていることができません。
動物病院で診察してもらったところ骨が折れているということでした。


それからのイチは怪我を治すことに専念せねばなりませんでした。


そんなイチの悔しさとは裏腹に今年の犬ゾリレースも、ガス会社のチームやみかん星人チームを
破って決勝に進出していました。

イチはなんとか犬ゾリレースに決勝に間に合うように努力しましたが結局間に合わず、
参加することができませんでした。

しかし何と皮肉なことでしょう。前回どうしても越えられなかったあの海辺の街のチームを相手に、
若い犬たちが一歩もひるむことなく颯爽と駆け、大差をつけて圧勝してしまいました。

初めてのことに街の人たちは大喜びです。

イチもとても嬉しく思いました。でも、そこに参加できなかったので少し複雑な気分でした。
彼の夢はあくまで自分の力で勝つことでした。
あの大きな壁であり目標であった秋田犬を乗り越えるためには、自分も参加したかった。
今年こそ自分の引くそりで秋田犬の前を走りたかった。
イチは喜びに湧きかえる街の中で、少し悔しい思いをしていたのでした。




怪我が癒え訓練所に戻ったイチの前に現れたのは、イチより大きくそして若い犬でした。
『闘莉王』というその犬は、イチがいない間に中心的な存在になっていました。


５年前の自分と似たような姿をした闘莉王に負けないよう、イチは一生懸命訓練をしましたが、
怪我をする前の調子をなかなか取り戻すことができません。

そう、もうイチはいつの間にか狩猟犬としては盛りを過ぎた年齢になっていたのです。


焦れば焦るほど、一時はすっかり影を潜めていた失敗癖が再び顔を出し、とうとうイチは
狩りに連れて行かれることすら殆どなくなっていきました。


イチは考えました。

僕の夢は、この街を日本一幸せな街にすることだ。
でもそれは僕だけの夢じゃなくて、この街の人たちすべてが夢見てることじゃないのかな？
それならば本当に必要とされているのは何なんだろう？
僕がここで飼われている意味はいったい何なんだろう？


闘莉王はその後も狩りに大活躍でした。
ある日の狩りで、あと少しで収穫なしという寸前の時間に、最後まで諦めずついに獲物を
捕らえた闘莉王と、それを囲み喜ぶ他の若い犬たちや街の人たち。

それらを見てイチはある決意をしたのでした。





その数日後、イチは久しぶりに狩りに連れて行ってもらいました。

イチがいるのを見た街の人たちが、頑張れと声をかけてくれました。

イチは、声をかけてくれた彼らの喜ぶ顔が見たい、そう思いました。


足音を忍ばせながら敵に見つからないようにスルスルと前に出ると
ちょうど目の前に獲物が飛んできました。

えいっ！

イチは思いっきり飛びつき見事に獲物をゲットしたのです。

見事に獲物を捕らえたイチを見て街の人たちも大喜びです。

「イチー、お前はまだやれるぞー！」そんな声が聞こえました。


そう、僕はまだまだやれる。自分でもそう思っている。

でも、もうこの街には僕の力は必要ない。
僕はこの街を愛しているけれど、この街はもう今いる若い犬たちに任せておけば問題ない。
彼らならいつか必ず僕の夢を叶えてくれるだろう。

さよなら、僕の愛する街。僕の愛する人たち。





翌日からイチの姿を街で見かけることはなくなりました。

でも、心配することはありません。

きっとどこかの土地で元気に暮らしていることでしょう。
あの優しい性格ならきっとどこへ行っても愛されるに違いありません。


そして、いつか必ずイチはこの街に帰ってきます。
何故ならここは彼が愛した唯一の生まれ故郷の街だから。


その日までに、私たちがこの街を日本一幸せにします。
イチの夢は叶わなかったけど、その夢は私たちが引き継ぎます。


その日まで元気でな、イチ！




（忠犬イチ公ものがたり　完）