前回のおはなし
　　　　

　　イチが街に戻ったちょうどその頃、街にもちょっとした変化が起こっていました。
　　イチに帰ってくるなと言った飼い主が去り、新しい飼い主がやってきたのです。
　　
　　その飼い主は、新しい調教師も連れて来ていました。
　　「ダイブツ」というその男は、あちこちの街を渡り歩き、何匹もの優秀な犬を育ててきたという話でした。
　　例えば、いろんな芸をすることで有名な「バイク屋のゴン」などは彼が育てたらしいのです。
　　
　　リーダー格の「フクチャン」や「マサミ」は、昔ダイブツに訓練を受けたこともあってか
　　素直に彼の教えを受け入れました。「ボーズ」や「ヨゴレ」といった若い犬たちを登用したりして
　　たちまちダイブツは犬たちや街の人たちの心をつかんでいきました。
　　
　　
　　でも、そんなダイブツを快く思っていない犬もいました。イチの一番の仲良しである「アベチャン」です。
　　「ケッ、あいつ気に入らねーな。」
　　アベチャンはいつもイチにそうつぶやくのでした。
　　
　　イチ自身も決してダイブツに１００％満足はしていませんでした。
　　狩りに関する能力は誰にも負けない自信はあるのに、足が遅いという理由で、
　　ダイブツがイチを全面的には信頼していないのが何となくわかるのでした。
　　でもイチは、去年自分が受けた仕打ちを考えれば我慢できる、そう思っていました。
　　
　　それに、何よりもイチには、自分の街を日本一の素晴らしい街にするという大きな夢があります。
　　いろいろ冷たい仕打ちを受けたことを水に流してここに戻ってきたのは、すべてその夢を実現させるためです。
　　そのためには何が何でも頑張る、イチはそう決意していました。
　　
　　
　　
　　でもある日、イチのそんな決意を揺るがせる出来事が起きたのです。
　　
　　イチが訓練を終えて犬小屋へ戻ろうとしていたとき、アベチャンが近づいてきて言いました。
　　「なあ、イチ、ちょっと話がある。」
　　イチはそう言うアベチャンの目を見て、すぐにそれが重要な話だということがわかりました。
　　
　　「オレ、別の飼い主のところへ行こうと思う。」
　　イチはそれを聞いて全身の力が抜けていくのがわかりました。そしてその行き先を聞いてもっとびっくり
　　してしまいました。遠い北の街だというのです。そういえば去年「ロンブーサンゴー」という先輩犬が、
　　役立たずのレッテルを貼られて、もらわれていった街であることを思い出しました。
　　でもロンブーサンゴーはそこで大活躍して飼い主や街の人たちの信頼を得ることができたということです。
　　その後大怪我をして動物病院へ入院したようですが、街の人たちの看病やお見舞いを受けて、もう元気に
　　なっているようです。
　　
　　考えてみればロンブーサンゴーがこの街にいた最後の頃といまのアベチャンの状況は似ているのかも
　　しれません。それならこの街にいるよりも、そんな素晴らしい飼い主や街の人がいるところに
　　もらわれていったほうが幸せになれるかもしれない、そんな気もします。
　　
　　でもイチの夢のなかにはいつもアベチャンがいました。
　　アベチャンがいなくなると、まるで夢までが色あせていくような気がして、イチは悲しくなりました。
　　「なあイチ、わかってくれよ。もうお前はオレがいなくても大丈夫だよ。」
　　「それは僕のセリフだよ。それより向こうへ行っても怪我すんなよ。」
　　イチは、悲しみをアベチャンに悟られないように精一杯強がってみせました。
　　
　　
　　アベチャンがいなくなったあとも、イチは頑張りました。
　　マサミやボーズやウッチーサンの壁は厚かったものの、彼らが一匹でも抜けたときに
　　きちんと彼らの代わりがこなせるように心がけていました。
　　そしてある日、イチがたまたま予防注射を受けるために狩りに出られなかった日のことです。
　　ダイブツの口からこんな言葉が出たのです。
　　「イチがいないのは痛い。狩りに支障が出る。」
　　それを聞いてイチはやっとダイブツの信頼が得られたことがわかりました。
　　その後も、狩りには出たり出なかったりではありましたが、信頼を受けていることがわかり、
　　前のようには心を乱したりしませんでした。
　　
　　
　　
　　さてそんな頃、犬ぞりレースが行われることになりました。
　　このレースは毎年行われているのですが、いつも街の人たちは、狩りにばかり興味を注ぎ、このレース
　　にはあんまり興味を示さないのでした。
　　
　　しかし、猛犬のいる金持ちのチーム、踊る犬がいる西のほうのチーム、裸族のいる近所のチームなどを
　　次々を破り、「エメ」という俊足犬の大活躍で電器屋のチームを撃破してついに決勝進出を決めると、
　　街は大騒ぎになりました。
　　
　　決勝戦の相手は、イチが前に飼われていたあの海辺の街のチームです。
　　自分を猟犬として一人前に育ててくれた、そしてアベチャンとの思い出もいっぱい残っている
　　あのチームを破って、僕の街を日本一にするんだ、イチの気持ちは嫌が応にも引き締まるのでした。
　　
　　
　　
　　決勝にはたくさんの街の人たちが応援に来てくれました。
　　イチは出場メンバーには選ばれませんでしたが、その場に参加できることにはなりました。
　　出場できないのは少し残念でしたが、その場に居合わせたことだけでも充分幸せでした。
　　ダイブツは出場メンバーに注意を述べたあと、イチたち参加メンバーにも一言告げました。
　　「負けそうになったら交代するから準備しておくように。」
　　
　　相手は、リーダーの「秋田犬」を中心に「ノウメン」や「アツシ号」など、若いながら決勝の場を
　　幾度も踏んだ犬たちを揃えた、なかなかの強敵です。
　　
　　
　　レースは両者互角で始まりました。
　　
　　先頭を走るエメや「ツト」「ユウイチロウ」が俊足を飛ばすものの秋田犬の鋭いブロックにあい、
　　なかなか相手の前へ出ることができません。相手のノウメンやアツシ号も鋭い飛び出しを見せますが
　　「ギシ」がすんでのところで止めて、先行を許しませんでした。
　　
　　しかし両者が並んだまま中間地点を過ぎたとき、ついに均衡が破れたのです。
　　ミスコースしたノウメンにマサミが当たってしまい、ギシのブロックの先を越え、なんと正規のルート
　　へと戻ってしまいました。ちょっとしたアクシデントで相手に先行されてしまったのです。
　　
　　ダイブツは最初に予告した通り、俊足の「タチュヤ」を入れスピードアップを図りますが、
　　なかなか相手に追いつくことができません。イチはやきもきしながら見ていましたが、
　　足の遅い自分が交代することはないだろうと思っていました。
　　
　　ところが、リードされたままゴールが近づいたころ、ダイブツがイチのところへ歩み寄ってきて言いました。
　　
　　「いいか、イチ。君が先頭を走るんだ。
　　そしてゴールが見えたら精一杯身体を伸ばして跳び上がれ。
　　君の身体の大きさとジャンプ力ならきっとできる。」
　　
　　先頭を走ったことなど一度もないイチでしたが、ダイブツの指示はとてもよく理解できました。
　　そして何よりも、
　　自分の夢を実現させる絶好の機会に参加できるのならば、
　　どんなかたちでもいい。身体が壊れるまで全力でやる。
　　イチはそう決意していました。
　　
　　覚悟はしていたものの、やはり秋田犬のブロックは強固でした。
　　海辺の街にいたころ、秋田犬はイチの目標であるとともに、大きな壁でもありました。
　　そして今日は、イチにとって、そして街のすべての人たちにとっても、文字通り「大きな壁」となって
　　立ちはだかっています。
　　
　　イチは全力で走り続けましたが、状況を打開できないままゴールが目前に迫ってきました。

　　イチはダイブツに言われたことを思い出しました。

　　秋田犬は年齢のためかかなり疲れているようで、一瞬足をもつれさせました。



　　今だっ！！

　　イチは思いっきり身体を伸ばして跳び上がりました。

　　前足が秋田犬の前に出ました。

　　「やった、追いついた。」



　　イチがそう思ったとき、イチの目の前を相手の「アゴハタ」が横切ったのでした。


　　
　　
　　
　　イチの夢は叶いませんでした。
　　
　　でも、イチには今回確信したことがあります。
　　今までは自分の夢は夢でしかなかったけれど、それは夢じゃなくて実現できるんだ。
　　想い願えばいつかはかなう、そのときが来るまで僕は頑張る。
　　だってこの街は、ひとつしかない僕の故郷なんだから。


　　
　　
　　
　　そうですよね。だから残念だけれど今回もハッピーエンドではありません。
　　
　　このおはなしがハッピーエンドで終われるその日をイチとともに夢みて。
　　
　　
　　（完）