むかしむかしあるところに、イチという大変心の優しい犬がいました。
　　子犬の頃から野原を走り回るのが好きで、いつしか逞しく成長していきました。
　　でもイチの心はずっと優しいままでした。
　　
　　ある日のこと、いつものように野原を走り回っていると、
　　同じくらいの年頃の犬に出会いました。
　　その子はアベチャンと名乗り、イチと同じように
　　野原を走りまわるのが好きだと言いました。
　　２匹はたちまち仲良くなり、それからは毎日一緒に
　　駆け回るようになりました。
　　
　　
　　それからしばらくして、イチを飼いたいという飼い主が現れました。
　　その飼い主は海の見える街に住んでいました。
　　生まれ故郷の街やアベチャンと離れることにはちょっと抵抗がありましたが、
　　一度も海を見たことがなかったイチは、そこへ行くことを決意しました。
　　
　　イチの決意を聞いたアベチャンは、イチの幸せのためには仕方がない
　　とは思いながらも、内心とても寂しく感じていました。
　　そのため、自分もイチが行く街の近くにある訓練所に入ることにしました。
　　
　　
　　
　　イチの新しい飼い主は爺古といいました。
　　爺古はとてもしつけに厳しく、ときどき肝心なところで失敗をするイチは
　　いつも怒られていました。しかもドッグフードは加工食品だから食べるなとか
　　食べ物のことまで事細かに口出しするので、イチはめげそうになりました。
　　
　　でもある日、とても素晴らしい出来事が起こりました。
　　アベチャンが爺古のところに来ることになったのです。
　　何でも訓練所でモチとかイワとかいう名の先輩犬に意地悪をされ、
　　腹を立てて訓練所を飛び出てきたとかいう噂でしたが、経緯はどうあれ、
　　また２匹で一緒に駆け回ることが出来ると思うと、胸がわくわくするのでした。
　　
　　それからのイチは見違えるように元気になりました。
　　肝心なときに失敗をする癖は相変わらずだったものの、
　　それをきちんと取り返すことができるようになりました。
　　あるとき、泥棒と間違えて飼い主の家族のタカクワおにいさんに噛み付いて
　　しまったときなど、そのあとすぐに本当の泥棒を捕まえるという離れ業を
　　やってのけました。
　　たまに散歩の途中でリーダーの秋田犬が怪我をしてしまったときなどは、
　　代わりにリーダーをまかされるほどになったのです。
　　
　　
　　
　　そんなある日、イチのところに大変な話が飛び込んできました。
　　生まれ故郷の街の一大事です。
　　街に残った先輩犬のウッチーサンから聞いたところによると、
　　新しく狩猟のために飼い始めた大型犬が
　　ちっとも獲物を獲ってこないうえ、
　　他の犬たちも怪我ばかりで、食べるものがなくなって、
　　街の人たちは狩猟の旅に出なければならなくなったらしいのです。
　　街の雰囲気も今は荒涼としたものとなっているとのことでした。
　　
　　イチは、アベチャンと一緒に走りまわった故郷の街の風景を思い出しました。
　　そんな街が荒れているというのはとても悲しいことでした。
　　そうだ僕はやっぱり故郷の街を愛しているんだ、帰ろうあの街へ・・・。
　　そしてまたあの街の風景を取り戻すんだ。
　　
　　イチはアベチャンにも自分の決意を話しました。
　　するとどうでしょう、アベチャンは「イチが帰るなら俺も帰る。」
　　そう言うではありませんか。こんなに嬉しくしかも心強いことはありません。
　　イチの頭の中には、あの風景が更にはっきりと蘇るのでした。
　　
　　
　　故郷の街に帰ってからの２匹の活躍はそれは素晴らしいものでした。
　　リーダー格のフクチャンや、若き天才犬シンジなど個性の強い仲間たちからも
　　すぐに信頼を得ることが出来ました。
　　ときどき頑張り過ぎて怪我をしてしまうこともありましたが、故郷のためだと
　　思えばなんてことはありません。そしてあと少しで狩猟の旅から開放されるところ
　　まで蓄えを積み上げることができました。イチは幸せの絶頂にいました。
　　
　　でもある日、ちょっとした出来事が起こりました。
　　これを最後に狩猟の旅を終えることができるという、まさにその時のことです。
　　コンビを組んでいた外国犬がミスをして、飼い主が獲物に襲われそうになったのです。
　　ここで飼い主が襲われてしまったら、また狩猟の旅を最初からやり直さなければ
　　なりません。イチはとっさに後ろから獲物に噛み付きました。
　　その瞬間笛のような音を聞いたのを最後にイチは記憶を失いました。
　　イチが次に気がついたときには、周りは大歓声の渦になっていました。
　　これで狩猟の旅は終わったんだなと理解し、イチはほっとしました。
　　
　　
　　
　　でもその日を最後に、イチの姿は街であまり見られなくなってしまいました。
　　飼い主は、獲物に噛み付く犬は無能であると判断をしたらしいのです。
　　でも僕が噛み付いたのは、決して昔みたいに肝心なところで失敗した訳じゃない、
　　故郷の街を救うため噛み付いたんだ、イチはそう思っていました。
　　しかし、他の犬が怪我をしたときにもまったく声すらかからないことが続くに及んで、
　　イチは他の飼い主のところへ預けられることを決意しました。
　　
　　
　　預けられた先には、しばらく前に故郷の街からそこへ貰われてきた柴犬がいました。
　　立場的にちょっと苦しくなっているその柴犬の相手を進んで引き受けたり、
　　もちろん狩りのときには一生懸命頑張って、そこでも信頼を得られるように努めました。
　　そして故郷の人達が遊びに来たときには、しっぽを振ってじゃれ付きたい気持ちを
　　押し殺して、一生懸命預けられた先のために頑張りました。
　　でも、柴犬に罵声が浴びせられるなか、自分には励ましの声をかけてくれたときには
　　ちょっとだけ涙が出てしまいました。
　　アベチャンも元気そうでなによりです。
　　ああ、やっぱり僕は故郷に戻りたい、あらためてイチはそう思いました。
　　
　　
　　しかし、故郷に戻る日を首を長くして待っていたイチに対し、
　　冷酷な仕打ちが待っていました。
　　こっちはお前がいなくても何とかなる目処が立ったから帰って来なくてよい、
　　故郷の飼い主からの通告です。イチは目の前が真っ暗になってしまいました。
　　預けられた先にも、イチをもうしばらく預かっておくだけの余裕はないような
　　話は聞いていました。
　　つまり、イチには帰るところが無くなってしまったのです。
　　
　　
　　
　　他の飼い主を探すということも、イチくらいの犬であればさほど難しいことではありません。
　　でもイチには夢があるのです。故郷の街をアベチャンやウッチーサンと一緒に
　　日本一素晴らしい街にするという夢が・・・。
　　そして可愛がってくれる故郷の人達を幸せにする、
　　そのためには何としてでも故郷の街に戻らねばならないのです。
　　
　　噂では、アベチャンが、飼い主がイチにした仕打ちに怒っているとか、
　　故郷の人達が心配してくれているとか伝わってきます。
　　飼い主のお隣りのセイタロおじさんなんか、親身になって相談に乗ってくれます。
　　心の優しいイチはそのたびに涙ぐんでしまいます。
　　
　　
　　今日もイチは待ち続けます。
　　故郷の飼い主から戻って来いという声がかかるその時まで・・・。
　　





　　〜それから１ヶ月ののち〜
　　
　　ついにイチのところへ元の飼い主から帰って来いという連絡がはいりました。
　　良かったね、イチ・・・。
　　
　　でもこのおはなしはこれでハッピーエンドではありません。
　　イチの夢をかなえる準備が、もう１度できたに過ぎないのです。
　　
　　ハッピーエンドは、イチの夢がかなうその時までとっておくことにしましょう。
　　
　　（完）